昭和45年07月16日 朝の御理解



御理解第41節 「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい」

 「信心は話を聞くだけが能でない。」話を聞いて分かる。分かるという事は、育つという事につながっておらなければ分かった事にはならない。そこのところを話を聞くだけが能ではないとおっしゃったのだと思う。話を聞くだけではいかん、話を聞いたら十年たったら十年だけの信心がそれだけ成長しておる、育たなければならない。十年前も今日も同じである、毎日お参りをしてお話を頂いておるというだけではいけんという訳である。それには、「わが心からも練り出すがよい」と今日の御理解を頂いて、今日の御理解は「ああでもなかろうか、こうでもなかろうか」というなら腕こまねいて考えてみる。考える葦(あし)というような言葉がありますねえ。なる程、考えておりますと思いというものは段々深くなるものです。そこからフッと心の中によい考えがうかんでくるような事もございます。けれども、信心の稽古はね、決して考える葦ではいけない。頂いた御教えが生活の中に生き生きとして取り入れられて、生活の中にそれを現していかなければならない。そこから分かってくる事があり、又は今日頂いたお話だけでは分からなかったところに直面するものです。実際の稽古をさせて頂きますと、そこから分からせられるもの、今日の御理解はここのところだなと自分で分かる、と同時に分からないところが出てくる。そこのところが大事である。だからそこのところを、又心の中に分からんところをいろいろと研究してみる。と同時に次の御教えによって分からしてもらう、といういき方が大事である。そこから必ず信心が成長していく信心が育てられていく。何十年たっても信心がひとつも育たない人がある。信心が育つという事はどういう事だろうか。やはり信心の喜びの世界というものが自分を中心にして、段々広がっていく。自分の周囲の人達の事が切実に祈られてくる。そういう私は育つという事はそんな事だとこう思います。  何十年たったっちゃ、自分の事ばかりというような事では、いかにその人の信心が育ってないかという事が分かります。
 「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出すがよい。」話を聞いて、なる程なる程と合点するだげではいけん。その合点した事が生活の上に現される、行の上に現される。そこから必ず、いわゆる練り出されてくるもの。今日頂いておったのは、こういうところだなと分からせられると同時に今度は行じていくうちに今度は又、分からないものが出来てくる。
 昨日から婦人部の方達が、十名ばかりお茶の稽古をなさっておられる。私も好きですから、途中から見せてもろうた。初めての方達ばっかりですから、初歩の初歩からやっておられる訳でございますが、なる程、例えば私共の家内あたりは娘達がやりますから、見て大体の事は知っておるようである。けれども実際にふくさを裁いてみると、茶碗を握ってみる、茶筅をたててみるとです、簡単な事のようであり分かっておるような事であるけれども、実際は分かってはいない、出来てはいないという事。私は信心も同じ事だと思う。信心の話を聞きよる、見よるというだけではいかん。実際にです、やはりふくさを裁いてみなければです、あの気持ちのよいパチッという音すら出んのです。知っておっても。茶筅裁きは簡単な事のようであるけれども、なかなかそんな訳にはいかん。そこから分からせられ又分からないところが分かってくる訳です。
 御理解を頂いて、「今日の御理解はどこが一番有り難かったですか」というても、なかなか核心に触れてない人が多いようにある。いわゆる分かってないのである。そこで今日の、又、御理解は有り難かったという人もある。それでどこが有り難かったというと、どこという事がない、只漠然と分かっている。ですから本気でお話を頂かせてもらって、今日の御理解のここだと、それはお互いの信心の程度は各自のものですから、頂きどころはどこであってもいいとしましてです、「今日はここだ、ここのところを頂いて帰って、ここのところをひとつ本気で稽古させて頂こう」というような事になってこなければいけん。実際に稽古をしてみるとです、いよいよふくさを握ってみると、茶筅を握ってみるとです、「ここはどげんな風にしなきゃいけませんか」というところが必ず出てくる。
 練り出すという事はね、只考え出すといったような事ではなくて、それを行じて初めて練り出す事が出来るのだと。いわゆる分からんところすらも分かっていない。「今日の御理解はどこんにきが分からなかったですか」と言うても、分からなかったところすら分かっていない。
 皆さんが御理解を頂かれたらです、有り難いというところが分からしてもろうた、と同時に又、分からんところも必ず実はあってよいのである。「今日の御理解は、先生、難しゅうございました。あの辺はどう頂くべきでしょうか」と、私は質問があってよいのであろうけれども、質問を受けた事が非常にまれである。
 そして、それを持って帰って行じてみると、なおさら練り出されてくるところもある同時に、分からんところも出てくるのが本当なのである。話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出すという事。
 ひとつ皆さん、練り出していかねば、練り出すという事が信心が育っていくという事、成長していくという事。信心が育っていくという事は、どういう事かと言うとね、おかげの方もやっぱり成長していくのですよ、必ず。だからおかげを頂きたいなら、どうしても信心が伸びなければ、おかげも伸びてこない。信心の成長を願っての信心、それには話を聞くだけが能ではない、わが心からも練り出せと。という事は、腕こまねいて考えるというだけでもない。本気でその事をです、行じてみる。行ずるところから有り難いもんだなあというところが分かる。そこに徹底した行じ方。
 先日、学院に行っております娘から手紙が来ておる。その中に「今まで合楽におりました、自分の信心修行というものには、魂が入ってなかったように思います。」そういう表現では、当たらないかもしれませんけれども、最近はさせて頂く修行の中に、何とはなしに生き生きと魂を感ずるという訳なのです。そういう事が書いてある。徹しておる訳なのです、その事に。教えられた事を徹して行に表しておる訳なのです。「それはもうほとんどが、参拝とお掃除に明け暮れております」とこういう。ですから拝ませて頂くという事を、お掃除をするという事だけに明け暮れておる、そのお掃除の中に、今日頂いた御教えといったようなものが練り出させてくるのだしょうねえ。只、うかつにお掃除しておるだけじゃいかん。只、うっかりと働いておるだけじゃいかん。その中に教えが生き生きと、いうなら包丁持つ手にでも、お雑巾持つ手にでも、そこに信心の稽古が生き生きとして、表されていかなければならない、という事になります。
 「話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出せ」という事は、一生懸命共励会というのが最近流行っておりますが、信心の共励、信心の共研きをする。
だから共研きも有り難いけれど、共研きをする前に、まず教えを本気で行じて体験させてもらい、行の中から生まれてくる体験、行の中から分からないところが出てくる。そうしてその事の話合いを続けるといったようなね、工夫なしに共励会にのぞんだだけでは、つまらん事だと私は思います。只、理屈を覚えるだけではつまらん。わが心からも練り出す、練り出されてくるという事。その事が信心が育つという事だという事を、今日は皆さんに聞いて頂きました。信心が育つという事は、そのまま育ったおかげが伴うて来る。又、自分自身の内容としてはです、その祈りの範囲というものも、段々育ってきておる、広がってきておるという事である。そこに信心の喜び、信心の楽しみというものはある。そこでです、そういう信心を身につけていく為のひとつの、こういう心がけでなければならないという事が、今日の御理解四十一節とありますが、この四十一節だという事だと思うのです。四十という事は、「いつも」という意味でしょうね。一節という事は、いつもイロハのイの字から、いつもうぶな心でという意味をこの四十一節という事の中から感じます。
 四十一節の御理解を頂いて、話を聞くだけが能ではない、わが心からも練り出せとおっしゃる。練り出されて頂く心掛けというものはです、いつもうぶな心と、四十一節とは、いつもイロハのイの字から。「金光様の御信心ちゃ有り難いなあ」と分かり出したてころからが、これがイロハのイの字です。もう何べんでん参ったと言う事だけではつまらん。信心のお話を頂いて、「金光様の信心ちゃ有り難いなあ」と分かり出してきた時がイロハのイの字です。そういう時の気持ちが必要だという事。そういう風な心が、これは稽古させて頂く全ての事に、そういう風に言えるのじゃないかと思います。
 これは、偶然四十一節にこの御教えがあるのですけれども、これなんかでもやっぱり神ながらに出来てるなと思います。四十一節という、この御教えを行じていく心掛けとしては、始終一節の気持ちでおらなければいけない。次にはね、私共が稽古に当たっての心構え、例えばお茶ならお茶の精神といったものがですよ、、和敬(わけい)静寂ですか、そういうお茶の精神というものが、言葉がありますように、信心させて頂く者がまず教えを頂いて、教えに取り組ませて頂く心掛けとしては、いわゆるうぶな心をまず、いつも頂いておるという事。同時にですね、私は我情我欲を離れる事だと思います。御神訓に「我情我欲を離れて、真の道を知れよ」とあります。だから、信心とは結局は真の道を分かり、真の道を行じていく事にのです。だから真の信心という事になり、真の信心だからこそ真のおかげというのが伴うて来るのである。それにはまず、我情我欲を取りはらわして頂くという事。これが真の道を知らして頂く為の、まずそれが要諦である。
 お茶の精神があるように、やはり信心のひとつの精神というのは、その我情我欲を離れてからの稽古でなからなければならん。いや、離れさせて頂く稽古がまず必要だという事が言えます。とりわけ我情を離すという事は大変大事な事だと思います。我情というのは自分の思い。この自分の思いを捨てるという事がですねえ、稽古されんとですねえ、スッキリしたものが生まれてこないです。「十年前にあの人からあんな事を言われた」というのが十年後の今日さえ忘れられんというような事じゃ駄目です。そういう根性がね、心の中にひっかかっとったらその根性だけででも真の道は分かりませんよ。「あの人がああ言わっしゃった。これだけは死んだっちゃ忘れん」というごたる風な根性は駄目です。ですからなる程、その時には腹が立った。その時には悲しかろう、けれども信心させて頂く者はその腹が立ったり悲しかったりするような事がです、おかげでね、ああいうひどい事を言われたおかげでこういうようなものを頂いた、こういうようなものが育ったという事になったら、それは恨むとか腹が立つとかいう対照ではなくて有り難いという対照にしかなってないはずです。
 私は今朝方、お夢を頂いた。大祭があっておるようである。ある先輩の先生が私に「今度は装束が変わったもんの」と。「どういう装束でしょうか」と言うたら、「今までの装束と上の方は同じばってん、下の方は丁度、スカートのごたる、丁度尼さんのはかっしゃるごたる、そういうのをはかんならん」と言よんなさる。「そげなこつ早う言うとんなさったら作っときますもんに」と私が言よりましたら、横で秋永先生達何人かがおってその話を聞いて、もうそれこそアッという間にどこからかそれを仕立ててきてくれておるところであった。おかげで助かったと思うて私がそれをはかせて頂いて、いよいよ斎場に出ろうと思うたら、今度は違う先生が「あんた、そんな坊さんのごたると着てからどうしてお祭りに出られるの」と言われておるところであった。歯痒い事じゃなあという事でしょうねえ。 例えば、浅野主匠之守がね、応きょう役を務める時に、いわゆるあれが松の廊下のじんじょうの原因になったのだけれども、それこそ右に教えなければならんものを左、今日は普通の袴 でよいのに、今日は長袴だというような教え方をしとるもんですからそこに恥をかかなきゃならん、困った事になってくる。そこのところが無念残念と言うので、いわゆる殿中で刀傷沙汰になる訳です。まあ言うならそういうような事であった、今日の私のお夢は・・・・・。そして私は私で思いよる。「はあ、おかげ頂いた」と思いよる。ちった根性が悪いかもしれません。私はあんまりお祭りを仕えたり、装束をつけて出るのが好かん。それけん「こらもうおかげでお祭りに出らんでんよかたい」とこう思いよるところじゃった。そしたら何人かの先生が「そげなこつでいくもんの、早う前の装束持ってきてつけじゃこて」と言うてから言よんなさるけれども、私が平気でおるところであった。「お祭り仕えんでええけんでよかった」と思いよる。そして、いよいよ誰かが「どうしてそげなこつするか」と言う時には「誰々先生が言いなさったから」と言おうと思いよる。だから、わざとでん私はそれを着てからお祭りに出ろうかというような気持ちが起こっておるところであった。
 浅野主匠頭がもちっと根性が悪かったり、もう少し心が大きかったらです、それこそわざと、いわゆる偉い人の前に長袴で出て行ったに違いありませんよ。そして「お前は何というその不都合な事をするか」と言うたら「吉良上野之助がこれをはけと言うから、はいて来ました」と、私なら言うところじゃったというところなんです。教えられたら教えられた通りにするはずなのです。けれども、これをはけと言われたからこれをはいて来たんだと。まあ、夢がさめてから根性が悪いなあと自分で思いよるのです。有り難いけれども、そういう事を考えておるというようなお夢であった。
 どういう例えば、意地の悪い冷たい根性の悪い事をですよ、されても言われてもですよ、その事のおかげでこれが育った、これが頂けたというものを頂いたら、その事はもう決していつまでも忘れられんという事にはなってこない。むしろ有り難いというお礼の対照にしかならない。私共も随分、いじめられてきた。けれども、いじめられてきた人達のおかげで今日の私があると、いつも思うておりますから、そういう事はひとつもない。いつもそれこそ、流れ川三尺、どういう汚いものを洗うても後はもう清らかな水、流れ三尺のような思いで過ごす事が出来る。我情を捨てるという事は、そういう事だと思う。ですから、いわゆる今日の「信心は話を聞くだけが能ではない。わが心からも練り出せ」と。練り出すという事は育つという事だ。そんなら信心のお育てを頂くという事の為には教えを頂いたら聞くだけじゃいかん。それが行の上にしかも魂のこもった、いわば行に表されていかねばならん。そこから分かる事、いわゆる練り出されてくる事。又そこから分からないところが出てくる事。信心というものは、そのようにして練り出されてくるという事をです、例えば、昨日のお茶の稽古の中から同じような事が言える。見ただけじゃいかん、聞いただけじゃいかん、茶筅を握ってみなければ分からん。ふくさを裁いてみなければ、その難しさは分からん。又、それを稽古していく楽しさも勿論分からん。そこで、いわゆる御理解第四十一節。始終イロハのイの字であらなければいけない。始終一節のつもりでおらなければならない。うぶな心で今日も又、新たな、さらな心で、その教えに取り組む事だと思う。それが信心の稽古をさせてもらう要諦だと思う。その信心の稽古をさせて頂く、例えば、お茶の稽古をさせて頂く事が和敬といったような事が、そのお茶の精神の中心になるように信心させて頂く者の信心の中心というのは、何処までも我情我欲を離れてみるという事。いわば離れる稽古をするという事。そこからしか真の道は分かってこないという事。そこでその我情を離す、自分の思いを離す、それをいわば、神様にお任せをするという事なのです。右と思いよったけれども、左と思いよったけれども、神様が右とおっしゃるから右の心になるという事だと思う。自分の思いを捨てるという事だと思う。自分の思いを捨てて、いわば今日私が申しますような稽古に取り組まなければいけないという事。勿論、それには我欲も勿論であります。そこから、真の道が少しずつ分かってくる、ハッキリしてくる。だから、その真の道を行じていくという事になるから、真の信心が出来、真のおかげが受けられるということになるのです。
 自分の思いというものを捨てて、そして教えに取り組むという事がです、私は練り出すという事だと思う。練り出すという事は、考え出すという事ではないという事。考えてみるのもよかろう。そして考えがまとまったら、そのまとまった事を行の上に表してみなければいけない。そこから分かるところ、分からないところが出てくる。そこから信心の成長がある。その信心り成長、十年信心をしとっても信心の成長がないとするなら、それはせっかく稽古をさせて頂いておって、いうならば、お茶の稽古を横からずーっと見よっただけになる。それで分かったようであるけれども、実際茶筅を握ってみると分かってない事に気がつくような信心では惜しい事です。
 魂をひとつこめての信心の稽古、そこから練り出されてくるおかげを楽しみに信心の稽古をさせて頂かねばならんと思いますね。どうぞ。